妙経寺雑記

飯高の地

妙経寺が開創された飯高の地は、その時代によって香取郡、匝瑳郡に編入されるいわゆる地境地にあたり、現在は八日市場市に含まれています。
八日市場市の中央を南北に主要地方道・佐原八日市場線が走っていますが、妙経寺はこの街道沿いの飯高地区への入口、飯高檀林跡の台地を南へ降った地点、字御堂谷(御堂作とも書く)にありました。

浄行院日祐上人

かつて、飯高(村)周辺に散在する寺院は真言宗に属していましたが、その多くは中山法華経寺3世・日祐上人の布教伝道活動によって日蓮宗に改められています。妙経寺もその一例といえましょう。
日祐上人は、正しくは浄行院日祐といい、桓武平氏の流れを汲む千葉大隅守胤貞猶子で、正和3年(1314)、17歳で中山法華経寺(このころは本妙寺、法華寺に分かれていた)の3世となり、諸所に弘通所を設置して、日蓮宗の広範な派天と定着をはかり、強固な教団大成を確立して中山門流隆盛に導いた高僧です。

日祐上人の背後には、千葉胤貞をはじめとする一族の強力な外護があったといわれています。のちに飯高檀林の境内地となった台地は、平山刑部少輔常時の城があった地で、この平山氏も千葉氏の一族にあたります。平山氏は後北条氏に加担し小田原城落城とともに帰農したと伝えられ、妙経寺の隣接地に住居をかまえていたようです(『平山家文書』『八日市場の人々』)
日祐上人は応安7年(1374)5月19日、77歳で示寂しました。

妙経寺と妙福寺

妙経寺と本末関係にあった妙福寺は、延慶3年(1310)千葉氏の族・新藤太縦空の外護によって開創された真言寺院で、過去帳では日祐上人を開祖としています。
寛永5年(1628)に現在地へ移るまでは、妙経寺の北、飯高檀林の南端に建てられていました。つまり、妙経寺の裏の台地を登りつめたところにあったわけで、妙経寺との本末関係は真言宗寺院時代からのことかもしれません。

飯高檀林

飯高檀林は、天正7年(1579)教蔵院日生上人が、妙福寺で「法華玄義」を講じたことに始まります。
飯高城主・平山刑部常時の帰依を得た日生上人は、天正8年(1580)一寺を建立して法輪寺(のちの飯高寺)と名付け、学痒を敷設して学僧のために開講し、蓮成院日尊上人を招じて講主としました。

天正18年(1590)後北条氏が亡び、これに加担した平山氏が帰農していわゆる「草分け百姓」となるとき城地を寄進し、天正19年(1591)徳川家康から朱印地を給わって根本檀林の公認を得、飯高檀林の基礎が確立されました。

非常に高い格式を持った檀林で、江戸時代、総本山・身延山久遠寺貫主は、すべて飯高檀林の能化(現在の学長にあたる)を勤めた僧があたることになっていました。
妙経寺は、その附属研究機関的な役割をもち、宗門内の高僧を招いて講座を開いていたことが『真俗諸断帳』に残されています。

不受不施の信条

不受不施の信条は、日蓮聖人の厳誡として古くから堅く守られてきた宗制で、他宗徒の不施・供養を受けず、他宗の僧に施与せず法華信仰の純信を堅持しよう…というもので、釈尊の前では人間はすべて平等であり、釈尊の絶対唯一の正法である法華教の宣揚弘通こそが、身命を賭すべき道であると説くものです。

こうした純粋で、絶対の仏法に殉じようとする行動は時の権力者の最も嫌うところで、、徳川幕府の弾圧は激しく幕末までに多くの殉教者を出しています。

寺請証文の禁止

国主(権力)からの供養は例外とするという受不施の立場を不純とし、あくまでも不受不施の立場を守ろうとした僧たちは、寛文9年(1669)不受不施派寺院の寺請証文(*1)が禁止されたことから、形の上では抵抗運動に終止符が打たれました。妙経寺も不受不施派の寺院で、飯高(村)周辺の人びとは不受不施を辛抱していました。この不受不施派の中心となったのが中山法華経寺、池上本門寺、小湊誕生寺です。

(*1)寺請証文
宗旨手形ともいう。江戸時代、寺院が檀家の者に対して檀家であることを証明した手形。キリシタン禁制の目的から発したものだが、のちに一般化し、今でいう身分証明書となった。

日朝堂

徳川家康の側室・養珠院が、寛永年中(1624〜43)飯高檀林境内に日朝堂を建立して、二代将軍秀忠の娘(家光の養女亀姫の誤り)の眼病平癒を祈願したといういい伝えが残されていますが、飯高檀林にはその痕跡はなく、この日朝堂は「飯高の寺・妙経寺」の日朝堂のことで、いつの間にか「飯高の寺」から「飯高寺」となったものでしょう。
飯高周辺の寺院で、日朝堂の記述は妙経寺以外にありません。

珠姫

加賀藩主に嫁いだといわれる秀忠の娘とは、姫ですが、『寛政重修諸家譜』によると、元和8年(1622)に没しており、年代的にみて合致しません。寛永10年(1633)亀姫(一節には鶴姫、水戸頼房の娘)が3代将軍家光の養女として加賀4代藩主前田光高に嫁いでいます。

年代的にみて養珠院が日朝堂を建立して、眼病平癒を祈願したと言われるのは、この亀姫のことでしょう。水戸・頼房の娘と言うことは、養珠院の孫娘にあたります。

真俗諸断帳

飯高寺に所蔵される『真俗諸断帳』は、天明元年(1781)から3年(1783)にかけての「備忘録」または「日記」というべきもので、飯高寺を中心に書く寺院の主要な行事等が記されています。
「廿五日(天明元年8月)雨  海輪師入来今日於当村妙経寺説法届ケ」
「廿五日(9月)旭遠師来妙経寺ニ於テ説法ノ届ケ」
「廿五日(10月)快晴  旭遠師於妙経寺説法届ケ」
この記述から、妙経寺が飯高檀林の研究機関的な役割を果たし、高僧による講座が定期的に開かれていたことがわかります。