妙経寺の今昔

寳傳山妙経寺の歴史は、草創以来650余年になるが、寺が八王子市に移転した経緯につき、先代住職・積善院日甫上人の口伝によって記述してみよう。

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中興開山日甫上人

のちに当寺の中興開基法尼になられた小島妙静尼は、明治20年の頃、現在地に「鬼子母神堂」を建てて信仰の人となった。不幸にしてこのお堂は、明治30年4月22日に突如として起こった「八王子の大火」で消失してしまった。

妙静尼は意を決して上京し、大田区の池上にある大本山本門寺の塔頭の「長栄堂」に、18歳になる息女を伴って入堂し、時の貫首・久保田日亀大僧正猊下の温情あふるる御教導を受け、修行に精進されていたが、信仰に熱心であった息女に病死され、失意の極みにあったときに、兄弟弟子にあたる日甫上人がその葬儀万端をお世話したことが御縁で、久保田猊下のおはからいにより、養子の縁組みとなり、八王子に来られた。

日甫上人は義母にあたる妙静尼の片腕となり、孝養を尽くされ、八王子寺町の焼け野原に「鬼子母神堂」を再建して「積善教会」を設立。もっぱら、信徒の訓育に精励された。

旧鬼子母神堂全景その後、千葉県市川市にある大本山法華経寺の塔頭「遠寿院」に於いて、合計500日に及ぶ大荒行を成満し、「伝師相承」の位を得られた。更に時の日蓮宗管長・神保日慈猊下より「特選住職」を拝命し、千葉県八日市場飯高から市内散田町(当時の南多摩郡散田村)に妙経寺の寺号を移転し、檀信徒の協力を得て800坪の境内地に、墓地400坪を開き、妙静尼(信行院日照法尼)を中興開基と仰ぎ、日甫上人は中興開山になられ、大本山法華経寺からは「正中山別院」の称号を授与された。昭和12年のことである。

眼病守護・日朝上人像その後第2次世界大戦が起こり、昭和20年8月2日未明、B29の大空襲により、散田町の妙経寺と寺町の積善教会は一夜にして灰燼に帰した。

昭和25年、現在地(積善教会戦災跡地)に寺号を移転し、近代的な堂宇を建立したのであるが、終戦後のため、物資は乏しく、檀信徒もほとんど戦災をこうむっていたので、寺を復興することは誠に困難であった。しかし不思議な仏天のご加護と檀信徒の協力を得つつ、全力を尽くしてこの浄業にあたり、遂にその完成を見るに至った。前住職は先々代・日甫上人の徒弟にあたり、立正大学卒業直後、昭和15年4月8日、すなわち、日蓮聖人御幼少時善日麿像お釈迦様降誕の聖日を期して、寺内旧本堂に「日の丸子供会」を創設し、児童の宗教的情操教育に当たったが、戦争のため昭和19年の春に自然解散。

時うつり、前述の新本堂完成を待って、先々代・日甫上人の深いご理解と、檀信徒有志の物心両面にわたる強力なお力をもとに、本堂を仮保育室として「まや保育園(園名=お釈迦様御聖母の御名)が誕生した。戦後の荒れ果てた世相をかんがみ、やむにやまれぬ気持ちの所産である。

仏教保育を心として卒園した約2000名に及ぶ人々の将来に幸多かれと祈念している。また、通算500日の荒行を成満された先々代・日甫上人、先代・功存上人は300日、現住職が200日と、師弟3代にわたる行数を合算すると、1000日の荒行成満となる。法悦極まりなし。今後ますます布教活動に邁進し、歴代先師の御徳を偲びつつ報恩感謝の誠を捧げる所存である。

合掌三礼
平成17年1月1日
妙経寺現董  小島正存  識